お酒を呑むのと、お茶を飲むのと。

昨日の夜から今朝までドラビディアンドラッグストアの忘年会オフに参加していました。「亀虫」の監督・富永さん(腰の低い方だった)やわたしが連れて行った野上君など、初顔合わせのひともいましたが、ウェルカムムードいっぱいで、和やかでした。
私はお酒をほとんど飲めない性質なので、最初にサングリアを小さなグラス一杯だけ頂いて、その後は全くアルコールを飲みませんでした。でも他の人たちもそんなにべろんべろんになるほど飲まずに会話を楽しむという具合で、inu-kunに言わせると「お行儀がいい」集いです。まあ大寺さんはご意見番として男の子たちの教育をしていたみたいですが、ほどよい男女混合具合も、楽しかったです。

家に帰ってきて、boochyさんの「名前のない日記」のログを読んで、ふと、男の人同士がお酒を呑んで盛り上がるというのはどういうことなのだろうと思いました。

単にリラクゼーションとしてお酒があるのならば、飲めない人はお茶で充分なんだけれど、「酔いに任せて…」ということが許されちゃったり、許すほうも「こいつは酔っ払っているからしょうがないなあ」みたいなのも当たり前みたいになっちゃっている場が確かにあるんでしょう。
「呑む」というのは「つるむ」という同義語なんでしょうか(笑)。

「名前のない日記」では「ネットと酒宴の同一感について」という文章が綴られています。呑みに行くこととブログの類似性ということをboochyさんは言われているのですが、それは、inu-kun、boochyさん、ひぐひぐ兄やんの関係性がすでに成立しているから、お互いに顔を合わせなくともコミュニケーションが成り立つということなのでしょう。わたしにとってブログは「ビンに手紙を詰めて海に放る」ようなもので、たまたま拾ってくれた誰かが反応してくれたときだけ「報われた」と思うのです。寂しがりやのわたしとしては、もうちょっと誰か反応しておくれよう、と思うのですが…

ところで。
29日にinu-kunは男しか参加しない忘年会にいくのですが、わたしが「みんなに会ってないから顔出していい?」というと「バーカ、なに考えてんじゃい。グチを言い合う会なんだから来んな!」といって断言しました。そういう「男の子の集い」はやっぱり頭悪いんじゃないか、と、思います。昔は女性が井戸端会議という連帯の場を持って、様々な言葉のやりとりをしていたものですが、いまは男が家庭のことでグチる場を求めているということなのでしょうか。まあ、他者の介入を拒む「男の子の論理」が酒の席という場でグチの花咲く裏では、家で子供をあやしたり、家事をやったり、あるいは仕事のことに煩わされている女の人に少々罪悪感を感じていることでしょう。

また、上記のことにも少し関係しているのですが、inu-kunがよく「○○くんはナイーブだから」と人格の閉鎖性をさも美徳のように敬っていることにはかなりうんざりさせられます。誰に対してナイーブかというと、たいていは自分と知識が同等でない(下の場合も)ひと、若しくは嗜好を同じくしないひとに対する「過剰な自己防衛」なんです。
要するに、人とコミュニケーションする能力がないだけじゃないか。
それをナイーブなんていう言葉にすり替えてしまうことは、inu-kunはおれたちの聖域にお前は入ってくるな、と言っているようで、本当にむかつきます。ナイーブな男のひとは、ようするダンボール箱に入ってくんくん泣いている犬のような心持ちで、大きくて面倒見のよいinu-kunと自分との世界に介入者があるのを嫌います。犬は家族の下から2番目というポシションを取るというから、わたしが一番下なんでしょうね。

「男の子も女の子も関係なく、一緒にお茶する」ということはかなり高いコミュニケーション能力が必要とされます。お酒を飲んでいても構わないんですが、あくまでも「飲む」であって「呑む」じゃない。お酒が入って加熱する論議でなく、聡明さを保ちつつ、ゆるゆると和む、あるいは議論する、パリのドゥ・マゴのような場の実りの多さにもっと目を向けてほしいなと思います。
いやみにいってしまいます。呑んでつるみたがる自分たちの脳みそでは、お茶を飲みながら議論が成り立つというのは想像できないだろー。